「初めてお茶室に入ったのは、茶道のお茶会ではなく香道の香筵で、それは東博にある転合庵でございました」
朝まだ早い時間、師の奥様と私以外には誰もいない静かな教場のお茶室で、私がそうお伝えすると、奥様は「まぁ」というお顔をされてから、目を細められた。
宮尾登美子さんの「伽羅の香」は、その時に奥様に教えて頂いた本。
頁を捲るうちに現れるのは「蘭奢待」の文字。
その天下の名香の名に思い出すのは、恐らく一生に一度の機会だったろう、その名香を聞く機会を、「作法を知らない、素養が足りない」と迷いに迷った上で尻込みし、ふいにしてしまったことだった。
生涯に一度の機会を、それと知りながら逃してしまった。
その哀しさは、先ず茶道へと私を向かわせることになる。(そして、茶道の素晴らしさとも出会うことになるのだが…)
真夏の転合庵、降るような蝉時雨。
初めて見た香道のお点前。
馥郁たる香りと、掌の床しい残り香。
あの日は、人生の転機のひとつであったと思う。
香は自分の心を映す鏡。
ならば、今、映るのは何だろう。
「香道は憧れですね」
あの時、奥様はそう仰った。
私も同じ想いを抱いている。
いつかその道に入る日は、来るだろうか。